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27 Monday
おもい

死ぬほど好き、とか、殺したいほど好き、っていうの、戯曲とか歌舞伎とか、とにかく昔のものに出てくるけど、なんでそこまで好きなんだろう。昔は今ほど豊かじゃない。ふと思いついて海外行ったりとか、声が聞きたくなって電話したりとか、地球の反対側で起きた交通事故に心を痛めたりとか、てか今一生懸命書いてたこのあと消えた。いやかくけど。続きね。食べたいなって思ったもの食べたりとか、暗くなったら電気つけたりとか、そういうことはできなかった。でも、だからこそ、雑誌のコラムとか、ニュースの特集とか、ラインのスタンプの有無とか、SNSの呟きなんかに惑わされずに、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の肌で感じた相手を心から信じて、好きだったんだと思うんだよね。好きってさ、本能じゃん。でさ、本能で言えば、生きたいっていうのが1番の本能じゃん。好きっていうのも、種の保存の本能かもしれないけど、種の保存をする前に死んだら無意味じゃん。でも、その1番の本能を投げ捨ててでも、投げ捨てさせてでも好きってことじゃん。それってすごいなって。語彙力のなさ。でね、それを、想像しなきゃいけなくなった時。そもそも、私は、生きることへの執着が薄いんだと思うんだよね。死にたがりとか鬱とかそういう意味じゃなくて、コレのために生きていたい、ってものが、本当にあるのか自信がないってことね。ただただ生きていたい、死にたくないって思ってるわけでも、これが生き甲斐だ!と胸を張れるものがあるのかどうかも自信がなくて、ただ惰性で生きている私に、それが想像できるかということ。これまでの人生短い中だけど、それこそその後の人生になんの影響もないことだったとしても、今ソレを捨てるか、たとえ困難があろうとも持ち続けるかの選択を迫られた時、私はおそらく、楽な、捨ててしまう道を選んできたから、捨ててしまえる程度のものしか持っていなかったということ。そんな私が、ソレがなければ、ソレがなくなってしまうのならば、いっそ、死んでしまいたいと思うほどのなにか、その想いを掴むことなんてできるんだろうか、なんて。ちろっと深夜に考えごと。別に病んでるわけでもないです。むしろいつもアッパラパーで何も考えてない私がこういうこと考えるようになったのは進歩。心中ってすごいよね、心の中って書くんだよ。何で?調べてみたんだけど、昔の遊女さんたちってさ、本当に好きになった人がいると、髪切って送ったり、入れ墨したり、指切り落としたり、生爪はがしたりしたんだって、でまあ、遊女さんたちだから、商売道具に傷つけてるじゃん。生活成り立たないじゃん、でもそれほど、あなたが好きですって。心中立って言ってたらしいんだけど。で、それの最たる表現として、愛し愛されてるけど、一緒には成れない。その愛の表現として、一緒に死のうってのが心中。相手に私の心は嘘偽りありませんって中を見せてる証拠として。いやだから、一家心中とかは本来の心中の使い方とは違うみたいね。一家心中は無理心中の一種だね。無理心中も無理矢理心中の略でしょ?たぶん。こういうの書いてると止まらなくなるから寝ます。またたぶん書きたくなるので書きます。あでぃおす。




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