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男女の関係とか、そういうの。最近私が見た芝居にそういうのが多くて、よく考える。
例えば、男女間の友情は成立するのか否か。
そもそも、友情が成立している状態っていうのは何なんだろう。
同性間でも、友情が成立している状態っていうのはすごい不安定な状態だと思うんだけど。
友情っていうのはどういうくくりなんだろう。
長く一緒にいてさ、本当に何も気を置くこともなくてさ、お互いのいいところ、悪いところも全部知ってて、喧嘩もして、それでも一緒にいるのが心地よくて。
その人が困ってたら助けてあげたいし、自分が困ってたら助けてくれる。
いわゆる親友っていう人。
でもなんか、私の感覚だけど、そういう人たちに対する感覚って、友達っていうより家族に近い。
私の場合そういう人たちの方が家族より一緒にいる時間長いしね。
いや、そうでもないのか。家族は20年間一緒にいたんだもんな。それに比べたらわずかな時間か。
まあ、そういう感覚が、同性間の友情でもあるわけさ。
じゃあそれは、友情なの?その、家族に近いって感覚は。友愛?家族愛?
友愛っていうのは友情より強いの?家族の絆ってやつよりも強いの?
家族と、その友達が同じように困ってたら誰を助ける?私はたぶん友達かな。それは、人それぞれ育ってきた環境で違うだろうけど。
そういう感覚をさ、異性に対しても持ってるっていうのはさ、何ら不思議なことじゃないと思うんだよね。
同性に対して、何かしてあげたい、助けてあげたい、一緒にいたいって思ったら友情だけど、異性に対して思ったらそれは友情じゃないっていう考え方はよくわからない。理解はできるけど、納得できないというか。
そりゃ、愛かもしれないけど、恋ではないと思うんだよね。
恋はなんかさ、見返りを求めてるというか。自分が相手を愛する分、相手からも愛されたい。でも愛って、自分から与えるだけで与えられることを期待していないって解釈なんだけど。
いや、そこまで高尚な考えで友達と付き合ってるわけじゃないけどさ、でも、友達が困ってた時、こいつ助けたら後から私に利益あるなって考えながら助けることってあんまりないんだよね。考えて助ける人もいるだろうけど。それはそれでその人の人付き合いの仕方だから悪いとは思わない。私はしないってだけで。
それを、異性に対してやってたら、ああ、こいつ、あいつに気があるんだなってなるの、納得いかないんだよね。
そもそも、愛情とか友情とかそういう形のないものの証明なんかできないのに、男女の友情は成立するのかっていう証明はどちらにせよできないんだよね。
そりゃさ、あると思うよ。片方は本当に友情のつもりでつきあってるけど、もう片方は恋心を抱いてて、それを隠して付き合ってる。
それでも別に、友情は成立してるんじゃないかな。
だってさ、ほんとに若者言葉でいうニコイチみたいな仲のいい同性の友達と、恋人同士の違いってやることやるかやらないかだけだと思うんだ。
じゃあやってなかったら友達でいいんじゃないかな。
なんか何言ってるかわかんなくなっちゃった。
まあそういうことです。
男女間の友情は成立するか否かはわかんないけど、ないって証明することもできないんじゃないかなって話でした。
死ぬほど好き、とか、殺したいほど好き、っていうの、戯曲とか歌舞伎とか、とにかく昔のものに出てくるけど、なんでそこまで好きなんだろう。昔は今ほど豊かじゃない。ふと思いついて海外行ったりとか、声が聞きたくなって電話したりとか、地球の反対側で起きた交通事故に心を痛めたりとか、てか今一生懸命書いてたこのあと消えた。いやかくけど。続きね。食べたいなって思ったもの食べたりとか、暗くなったら電気つけたりとか、そういうことはできなかった。でも、だからこそ、雑誌のコラムとか、ニュースの特集とか、ラインのスタンプの有無とか、SNSの呟きなんかに惑わされずに、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の肌で感じた相手を心から信じて、好きだったんだと思うんだよね。好きってさ、本能じゃん。でさ、本能で言えば、生きたいっていうのが1番の本能じゃん。好きっていうのも、種の保存の本能かもしれないけど、種の保存をする前に死んだら無意味じゃん。でも、その1番の本能を投げ捨ててでも、投げ捨てさせてでも好きってことじゃん。それってすごいなって。語彙力のなさ。でね、それを、想像しなきゃいけなくなった時。そもそも、私は、生きることへの執着が薄いんだと思うんだよね。死にたがりとか鬱とかそういう意味じゃなくて、コレのために生きていたい、ってものが、本当にあるのか自信がないってことね。ただただ生きていたい、死にたくないって思ってるわけでも、これが生き甲斐だ!と胸を張れるものがあるのかどうかも自信がなくて、ただ惰性で生きている私に、それが想像できるかということ。これまでの人生短い中だけど、それこそその後の人生になんの影響もないことだったとしても、今ソレを捨てるか、たとえ困難があろうとも持ち続けるかの選択を迫られた時、私はおそらく、楽な、捨ててしまう道を選んできたから、捨ててしまえる程度のものしか持っていなかったということ。そんな私が、ソレがなければ、ソレがなくなってしまうのならば、いっそ、死んでしまいたいと思うほどのなにか、その想いを掴むことなんてできるんだろうか、なんて。ちろっと深夜に考えごと。別に病んでるわけでもないです。むしろいつもアッパラパーで何も考えてない私がこういうこと考えるようになったのは進歩。心中ってすごいよね、心の中って書くんだよ。何で?調べてみたんだけど、昔の遊女さんたちってさ、本当に好きになった人がいると、髪切って送ったり、入れ墨したり、指切り落としたり、生爪はがしたりしたんだって、でまあ、遊女さんたちだから、商売道具に傷つけてるじゃん。生活成り立たないじゃん、でもそれほど、あなたが好きですって。心中立って言ってたらしいんだけど。で、それの最たる表現として、愛し愛されてるけど、一緒には成れない。その愛の表現として、一緒に死のうってのが心中。相手に私の心は嘘偽りありませんって中を見せてる証拠として。いやだから、一家心中とかは本来の心中の使い方とは違うみたいね。一家心中は無理心中の一種だね。無理心中も無理矢理心中の略でしょ?たぶん。こういうの書いてると止まらなくなるから寝ます。またたぶん書きたくなるので書きます。あでぃおす。
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